「生きづらさ」を抱える人たちの生涯学習から始まる共生社会の新たな姿—「共生圏の拡張」と当事者の社会参画—


※以下のエッセイは、筆者が2025年11月に応募した「懸賞論文」の募集で、実践を考察し、まとめたものを一部改編し、公開している。 

 本エッセイは、「生きづらさ」を抱える人たちが集う生涯学習の取り組みが、多様な人々の出会いのきっかけとなり、各人が「リカバリー」 (その人らしい暮らしを主体的に求める生き方)を共に歩む過程でつながり、「生きづらさ」の有無にかかわらず多様な個人が協力し合う関係が立ち上がることに注目する。また、別々の個人が共に生きる地域が生まれる仮説的概念としての「共生圏の拡張」を共生社会の核とし、多様な人々が参画する社会を構想する。なお、本エッセイは、市民・当事者・実践者として筆者が実際に体験してきたことを基に執筆する。


第1章:「生きづらさ」を抱える人とはだれのことか

1.1. 「生きづらさ」とは

 筆者は、20代で双極性障害(いわゆる「躁うつ病」)の診断を受けた。電車では他の乗客が「無職のわたしを蔑んでいる」と思い込み、当たり前に働けない「自分は価値がない」と感じ、気持ちを晴らすために散歩をしても「太陽の光をぼんやりと見つめながら、このまま木漏れ日の中に消えてなくなりたい」と感じる日々を送っていた[1]。つまり、筆者は「生きづらさ」を抱える人と言ってよいだろう。昨今、「生きづらさ」という言葉を多くの場所で聞かれるようになり、「だれもが生きづらさを抱えている」とも言われるが、一体、「生きづらさ」とは何なのだろうか。「生きづらさ」とは、初めは医療や福祉の現場で使われるようになり、「既存の枠組みではすくい上げづらい障害当事者の困難を表現する言葉」であったが、その意味が拡張され、障害当事者だけでなく多様な人々の「生きづらさ」を含む言葉となっていった[2]。ゆえに、「生きづらさ」という言葉は、特定の属性や状態などを意味するわけではなく、また客観的な尺度で測れるわけでもない、個人的・主観的で境界があいまいな言葉である。

 日本における「生きづらさ」を抱える人の正確な人数を把握することは難しいが、関連する複数のデータを参照してみたい。

 そこでまず、筆者にとっての「生きづらさ」の要因である双極性障害に密接する「精神障害」について考えてみる。「精神障害」という言葉は、複数の法制度によって別々に定義されており、定まっていない[3]。その上で、参考値だが、2023年時点の日本における精神障害者(発達障害を含む)の総数は603万人であり、人口の約5%である[4]。また、精神障害者が一般企業に就職した際の1年後の定着率は49.3%であり、障害者雇用ではない一般求人で、自身に障害があることを就職先に伝えている場合は定着率45.1%、伝えていない場合には27.7%まで下がる[5]

 加えて、公益財団法人日本財団が、「働きづらさ」をテーマにして取り組んでいる就労支援プロジェクト「WORK!DIVERSITY」では、「非就労障害者は356万人、LGBTは220万人、ニートは145万人、アルコール依存症は109万人。その他、引きこもり、ホームレス、難病、刑余者、貧困母子世帯など働きづらさの要因は挙げれば切りがなく、そういった人々への支援は手薄な状態にある」とし、およそ「1,500万人以上」が「働きづらさ」を抱えているとしている[6]

 これらのデータを踏まえると、人は皆生きづらいとまでは言わないまでも、「生きづらさ」を抱える人たちは決して無視できない割合で存在しており、個人ではなく社会的な問題であるということができる。

 さて、「生きづらさ」を考える際には、「インターセクショナリティ」の視点を踏まえたい。民俗学者の辻本侑生によれば、「インターセクショナリティ(交差性)」とは、生きづらさを生み出す様々な属性(section)が、複雑に交差(inter)している状況を理解するための概念であり、その属性は能力やジェンダー、民族、年齢、他多岐にわたる[7]。また、「ある属性Aを有していることによって受ける生きづらさを「1」とすれば、属性Aと属性Bの双方を有している人は、足し合わせて「2」の分量の生きづらさを経験している」のではなく、「属性A・属性Bの双方を有している人にしか経験し得ない、固有の差別や抑圧がある」と理解する必要がある[8]。先のデータも「インターセクショナリティ」の考え方で捉えると、いかに多くの人たちが、それぞれ多様な「生きづらさ」を抱えているのかが容易に想像できるだろう。

 しかし、これでは「生きづらさ」がさらに細分化され、結局は個人的な問題として片付けられてしまいそうだ。その人の能力が足りず、考えることを怠り、努力をせず、自分の「生きづらさ」は自分に原因があるという、いわゆる自己責任の問題として理解してしまってよいのであろうか。

 そこで重要なのが、「障害の社会モデル」の考え方である。共生社会や障害者の生涯学習に詳しい教育学者の津田英二は、「障害の社会モデル」とは「障害は社会の問題であり、社会変革なくしては障害の問題は解決に向かわない、とする価値観」であり、「社会にある障壁によって不利益を集中的に被っている人たちと障害者を捉える価値観」[9] だと説明する。この理解を踏まえれば、「生きづらさ」を抱える人にとっても、厳然たる障壁が社会に存在し、社会はそれらの障壁を取り除いていく責任があるといえる。

[1] 眞山舎『「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」活動報告書— “変化の地図帳”』2025年、p.4-5

[2] 及川祥平「民俗学と生きづらさ」及川祥平、川松あかり、辻本侑生編『生きづらさの民俗学—日常の中の差別・排除を捉える』明石書店、2023年、p.57-58

[3] 松本広大、勇上和史『障害者統計の現状と今後の動向』(財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」、2025年)によると精神障害者の定義は定まっていない。法令/制度等複数の異なる基準ごとに定義されており、だれが精神障害者なのかは文脈によって異なる。本エッセイでは、「生きづらさ」という用語が、社会に障害となる規範や慣習などが存在することを含意する。

[4] 厚生労働省「障害者の数」(2022年)

[5]独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構障害者職業総合センター「障害者の就業状況等に関する調査研究」(2017年)p.57参照。

[6] 日本財団「日本で1,500万人以上が抱える「働きづらさ」。今求められる就労支援の在り方を考える」https://www.nippon-foundation.or.jp/journal/2020/40204

[7] 辻本侑生「生きづらさとインターセクショナリティ」及川祥平、川松あかり、辻本侑生編『生きづらさの民俗学—日常の中の差別・排除を捉える』明石書店、2023年、p.66

[8] 同上、p.70

[9] 津田英二『「思想」としてのわいがや』障害をこえてともに自立する会、2021年、p.75

 

1.2. 問題意識:「生きづらさ」を抱える人の社会参画の機会の欠如

 筆者の問題意識は、「生きづらさ」を抱える人たちが実際に社会参画する機会が、極めて少ないことである。

 近年では、「生きづらさ」についての研究や「生きづらさ」を抱える人のための活動がさまざまな分野で展開されている。その一方で、そうした大規模なプロジェクトだけでなく、筆者が暮らす東京都国立市のような小さな自治体においても、「生きづらさ」を抱える人たちが参画できる機会を多様に増やしていく必要があると考える。「生きづらさ」と密接に関係するテーマで組織されている審議会・委員会を眺めても、専門家や支援者、行政関係者など社会的地位のある者が多く、「当事者」として参画していたとしても、特定の団体関係者や実績のある者が、長年その立場にいるのが現状だ。

 そもそも「参画」とは何なのか。2006年に国際連合で採択された「障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)」は、”Nothing About Us Without Us”(私たちのことを私たち抜きで決めないで)というスローガンと共に「世界中の障害当事者が参加して作成」された[10] が、このスローガンには、「政治的、社会的、および経済的、ならびに文化的生活のあらゆる側面における障害者の参加・統合の原則」[11] という視点が入っている[12]。つまり、「障害者が、その人の生涯にわたって、自身が関係するあらゆることを決める場に参加することができる」という意味だと筆者は解釈する[13]

 また、ジェンダーにかかわることも「生きづらさ」の要因となることから、「男女共同参画社会基本法」も参照したい。同法第五条には「男女共同参画社会の形成は、男女が、社会の対等な構成員として、国若しくは地方公共団体における政策又は民間の団体における方針の立案及び決定に共同して参画する機会が確保されることを旨として、行われなければならない。」とあり、同法における社会の対等な構成員とは、「方針の立案及び決定に共同して参画」しているか否かである。

 これらを踏まえると、「生きづらさ」を抱える人においても、その人自身が意思決定に参加すること(参画)そのものが大切ではないだろうか。つまり、「生きづらさ」を抱える人は、だれかに意見を吸い上げられ、代弁してもらう存在ではなく、自身に関係することを決める場に参加する存在であると捉えられなければならない。

[10] NPO法人DPI日本会議 https://www.dpi-japan.org/activity/crpd/

[11] ”UN Chronicle”(国連広報局)の右記文章を筆者が自身で翻訳した。”The growth of the international disability movement, with its motto “Nothing About Us Without Us”, encapsulates this fundamental shift in perspective towards a principle of participation and the integration of persons with disabilities in every aspect of political, social, economic and cultural life.”

[12] 日本国は2014年1月に「障害者権利条約」を批准。https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinken/index_shogaisha.html

[13] 「障害者基本法」(2016年)においては、「全て障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する」(第三条)とあるが、一般的に「参加」には「参画」の意味合いが含まれている。


第2章:「リカバリー」という言葉を通じてつながり、共に学び合う生涯学習

2.1. 当事者の社会参画を進める取り組み:生涯学習の推進と「共生圏の拡張」

 筆者は、「生きづらさ」を抱える人の社会参画を進めるにあたり、「生きづらさ」を抱える人たちが集い、「リカバリー」という言葉を通じてつながり、共に学び合う生涯学習の推進を提案する[14]。このような学びの機会を通じて生まれる「共生圏の拡張」を通じて、多様な「生きづらさ」を抱える人たちが社会参画し、他者理解や受容、寛容な社会になっていく未来を構想する。

 なお、「生涯学習」とは、「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすこと」(教育基本法第三条)という、あらゆる立場の人々の生涯に渡る学びが可能になる社会実現を目指す「理念」であるが、本論では主に大人の学びを念頭に用いる。

 また、本論で設定する「自治体」とは、既存の行政区分や政治・行政組織などの自治体制度の考え方に根ざしつつ、「地域社会としての自治体」とする[15]。筆者が既存の枠組みを前提としている理由は、現実の世界には必ずその土地その土地の文脈があり、その地域にすでにあるもの・いる人を前提にしてこそ、創造的かつ実装可能性の高い構想が生まれ得るという筆者自身の実践経験による。

[14] 本節以降については、筆者が全体の執筆を担った『「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」活動報告書——”変化の地図帳”』を土台に論じる。これは、筆者が代表理事を務める一般社団法人眞山舎が2023年度から文部科学省「学校卒業後における障害者の学びの支援推進事業」の委託を受けて取り組んでいる「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」の実践の積み重ねや発見をまとめた報告書である。なお、執筆に際して、本論の事例で紹介する参加者(Aさん)の協力があり、筆者の言語化作業や言葉・表現の選択、および全体の構成について多くの助言等があったことを明記しておく。

[15] 今井照『地方自治講義』(筑摩書房、2023)において、自治体には①土地の区分としての自治体、②地域社会としての自治体、③地域の政治・行政組織としての自治体という3つの種類があるとしている。本エッセイにおいて「自治体」と記述する場合、特段の注意書きがなければ「地域社会としての自治体」という意味で用いる。

 

2.2. 「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」とは

 「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」とは、精神・発達・知的障害やひきこもり体験、さまざまな特性などを要因とした「生きづらさ」を抱える人やその家族/友人、支援者や地域の人たちが、対話を通じて共に学び合う生涯学習の取り組みである。この事業は、筆者が代表を務める一般社団法人眞山舎(さなやまや)が、文部科学省2023~2025年度「学校卒業後における障害者の学びの支援推進事業」を受託し、国立市における生涯学習推進の中核的な社会教育施設である国立市公民館などと連携し、また多くの関係者の協力を得ながら実施している。

 2023年5月から2025年3月までの約18ヶ月で、41回の講座プログラムを実施し、累計661名の方が参加している。これらの講座は対話を軸にしており、言葉を中心とした対話(言語型)からスポーツなど身体的な表現にも重きを置く対話(非言語型)も実施している。参加者の多くは、精神障害やひきこもり体験がある人、名前のないしんどさをもつ人で、継続して参加している方や初めて参加する方などが入り混じる。

 また、講座プログラムの開発や実施、講座運営以外でも、実施体制、関係部局・民間団体などとの連携体制を構築することで効果的な生涯学習を提供することを意図した連携協議会という会議体を設置し、継続して講座プログラムに参加する「生きづらさ」を抱える人たちや社会教育・福祉の関係者、行政職員、研究者、実践者が参画している。

 RGKは、立ち上げ当初から事業のコンセプトを表現するフレーズとして「キョウドウを生きる暮らし」を掲げている。「キョウドウ」という言葉には、「共同」「協同」「協働」など近似する書き方があるが、その意味には違いもある。「キョウドウを生きる暮らし」とカタカナで表すことで、定義のちがいのような線が引かれているものが混ざり合い、曖昧になり、循環している様相を表現している。

 また、RGKの具体的な実践モデルとして、「リカバリーカレッジ」[16] や「リカバリーの学校」[17] を参考にした。「リカバリーカレッジ」は、英国で生まれた取り組みであり、市民のメンタルヘルス向上に向けて、疾患のある人やその支え手が、支援者/被支援者の関係を超えて協同し、互いに学び合うという取り組みだ。加えて、「リカバリーカレッジ」とはまた別の文脈であるが、東京都調布市ではじまった「リカバリーの学校」がある。「精神疾患があっても充実した人生を送る」というコンセプトにし、精神疾患経験者の体験談を交えながら、対話的な場をつくっている。

 RGKは、眞山舎というNPO(市民活動組織)が事業主体となっており、「協力」[18] という考えを大切にしている。教育学者の田中雅文は、「市民活動組織」とは「自発的に公益性を実現しようとする人としての市民が主体となるか広く参画し、個人・グループあるいはNPOとして行う公益的活動」であり、「共生という観点からみれば、市民活動組織は社会的に排除されやすい側の人々がそうでない側とともに主体性をもって「共に生きる社会」を創っていくための装置」[19] であると指摘する。眞山舎が「市民活動組織」であるという構造的な前提は、多様な主体と単なる取引ではない協力関係が生まれやすい要因であると考えられる。なお、国立市やその近隣市ではRGKより先に「生きづらさ」を抱える人の居場所づくりや生涯学習の取り組みを社会教育施設、社会福祉法人などが行ってきていることが、RGKの実践が成立する前提となっている[20]

 さて、筆者が本論で用いる「リカバリー」という用語は、疾患や障害などの「生きづらさ」を抱える前の状態に「回復」するという意味では用いない。むしろ、生きづらさを抱えながらも、「その人らしい暮らしを主体的に求める生き方」だと捉えている。さらに、筆者自身は、「リカバリー」という言葉が「生きづらさ」の有無にかかわらず、「私らしさ」が戻ってくるプロセスでもあると考えている。つまり、大人になるにつれ、「当たり前」や「大人らしさ」によって閉じ込めてしまった、物事が真新しく、新鮮にとらえることができる、子どもが抱くような感覚にあらためて気がつき、自分の中に、未だそのような自分が存在していることがわかることではないかと思う[21]

[16] 「リカバリーカレッジと共同創造」https://recoverycollege-research.jp/

[17] 「リカバリーの学校 調布校」https://chofu-npo-supportcenter.jp/circle?unitid=recoverychofu

[18] 松原明、大社充『協力のテクノロジー:関係者の相利をはかるマネジメント』(学芸出版社、2022)は、「NPO」は「協力の装置」であり、多様な主体の協働連携に適していると指摘している。

[19] 田中雅文「共生への学びを創る市民活動組織の可能性」佐藤一子、田中雅文編『共生への学びの構築―市民の協働にねざす教育創造』、東京大学出版会、2025、p.82

[20] たとえば、国立市公民館では、1980年代から障害の有無をこえてともに活動してきた「コーヒーハウス」の実践が今日まで展開している。RGKもこれらの地域資源とつながり、連携した取り組みを行っている。

[21] 筆者の観察であるが、RGKで出会った「生きづらさ」を抱える人との対話や学びによって、自分を「健常者」だと認識している人たちの「私らしさ」が戻ってくる機会を複数回確認している。

 

第3章:「私らしさ」の現れから始まる社会参画

3.1. 「私らしさ」が現れるRGKの取り組み

​ RGKで展開している各講座では、「1回だけの参加でもよい」「来たいときに来てよい」「予約不要・ドタキャンOK」など[22]、何ごとも無理しない/無理強いしないというメッセージ性を重要視している。参加者が自分の気持ちや体調に合わせて講座に参加することや、いざ参加した際にもできるだけ​周りに合わせず、空気を読む必要のない場になるよう心がけている。なぜなら、「生きづらさ」を抱える人の多くは、自分の考えや意見を自由に表現することで他人に批判されたり、協調性がないとされてきた経験から、本当に感じていることや思っていることを言葉にすることが困難なことがあるからだ。

 2024年度RGKの参加者アンケートでは、回答者18名中17名が、言葉を通じた講座プログラムを「自身の考えや気持ちを安心して表現できる場」と回答していた。このアンケート結果からは、参加者が講座内で自身の考えや気持ちを安心して表現することができていることが読み取れる。自分自身が感じたこと・考えたことは、その人固有の尊いものである。RGKという生涯学習の場が、参加者にとってだれかやなにかを意識して自分を装う必要のない、「私らしさ」が現れる場となっていることが確認できる。

 また、「私らしさ」が現れる現象は、講座プログラム以外の場面でも散見される。2024年度RGKでは、言葉に対するこだわりが人一倍強い一方で、最後まで責任をもつことが不安で、人と一緒に何かをすることが苦手な参加者(Aさん)がいた。とある企画について不安を吐露するAさんに対し、筆者は「いつでも投げ出して良い約束」を取り交わした。これは、先の「障害の社会モデル」にも通じるが、その人を変えるのではなく、「責任を負わなければならない」という慣行を取り払ったのである。結果、紆余曲折ありつつも、Aさんと筆者は2025年度のRGK活動報告書を共同して制作する運びとなった[23]。Aさんは一連のプロセスについて、言葉について「重箱の隅をつつきたくなる私が、そんな私のまま関わることで生まれる作用=“働き”がここにある」「何より『人を変えるのでなく方法を変えてみよう』という前提自体に、私は救われている気がする」[24] と後述している。

 ここまで、RGKについての概要や、その取り組みにおいて確認した「私らしさ」が現れる事例について確認してきた。本章では、「生きづらさ」を抱える人が、RGKを通じてどのような参画をしているのかについて言及したい。

[22] RGKの講座の中でも「リカバリーの学校」は、「リカバリーの学校 調布」の運営方法を参考にしている。その地、連続参加が前提の場もあるが、どの講座も無理しない・無理強いしないというメッセージ性が貫かれている。

[23] 眞山舎『「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」活動報告書— “変化の地図帳”』2025、p.28

[24] 眞山舎『「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」活動報告書— “変化の地図帳”』2025、p.28

 

3.2. その人の思い/願いをかたちにする「当事者参画型講座プログラム」

 2024年度RGKから始まった「当事者参画型講座プログラム」は、RGKの参加者が主体となって自身の思い/願いに根差す企画をかたちにするプログラムである。筆者はRGKコーディネーターとして、本人の思い/願いとRGKの事業目的とがうまく重なるように企画の内容、広報、および運営面からバックアップしている。なお、筆者と企画者の関係性にもよるが、双方向の対話によって企画づくりを進めるため、助言は極力避けるよう心がけている[25]。2024年度は、実人数9名の参加者が「当事者参画型講座プログラム」で自身がやりたい企画をかたちにし[26]、これらの企画には、RGKの参加者や、各人の知り合い、あるいは広報や参加者の呼びかけによって参加する地域住民など多様な人たちが参加した。

 「当事者参画型講座プログラム」の意義は、参画する体験そのものにある。参画とは、何も大それた企画を主催したり、多くの参加者を呼び込んだり、あるいは他人が評価する斬新なアイデアを企画化したりすることではない。自分の思い・願いをかたちにするという営みについて、だれでもない自分自身がその環境や枠組みを考え、選び、決めることである。

 極端にいえば、企画実施日の前日に中止したっていいのだ。中止することであっても、それは間違いなく意思決定であり、貴重な参画体験である。実際にRGKの中で生まれた「当事者参画型講座プログラム」では、様々な要因が重なり、途中まで検討に入ったものの、かたちにならなかったものもあるし、スピンアウトしたグループが自然消滅状態になったこともある。それでもなお、だれかが作った環境、枠組み、あるいは基準ではなく、企画をかたちにするプロセスにおける参画の行動そのものに意味があると筆者は考える。

[25] RGKコーディネーターの都合になりにくい背景として、「心がけ」だけでなく、コーディネーターが参加者に企画をやらせようとするインセンティブが働きにくいことが挙げられる。具体的には、当事者参画型講座プログラムの企画実施数や企画者数が、委託費の金額と連動していないことや、企画の実施可否自体が、参加者の意思に依存するためだと考えている。

[26] 眞山舎『「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」活動報告書— “変化の地図帳”』2025、p.19-20


3.3. 事業の方針の立案・決定に影響を与えるRGK連携協議会

 RGK連携協議会についても、当事者の参画の場となっている。RGK連携協議会は、事業の「実施体制、関係部局・民間団体などとの連携体制を構築することで効果的な生涯学習を提供することを意図した」会議体(2.2.)であると説明した。年3回程度実施されるこの場で議論されることは、事業の計画や評価、方針に関わることが多々ある。

 2023年度の初年度、「生きづらさ」を抱える人の連携協議会委員は0名だった。それから2024年度には1名、そして2025年度は11名中3名が当事者の委員となった。「『生きづらさ』を抱える人」と言っても、各人にはそれぞれの背景や価値観があるため、複数名の当事者が、他の委員である社会教育主事、ソーシャルワーカー、行政職員、大学教授などの専門家や実践者と構造的に等しい立場で参画することに意味がある。

 当事者の委員が、他の連携協議会委員と対等な立場で、だれかに意見を吸い上げられたり、代弁されるのではなく、自分の視点と言葉で意見・考えを述べることは、参画そのものだということができる。また、年3回程度の協議会だけでなく、活動報告会などで他のスピーカーと共に登壇することも、対等な立場から参画する姿の一つだと言える。もちろん、そのような報告会の企画段階で、主催者側が「当事者」の話すテーマや内容、具体的な表現をコントロールしたり、誘導しているのであれば、それは参画とは呼べない。


3.4. 地域で自ら参画の場をつくる「生きづらさ」を抱える人たち

 参画の場は、RGKの「当事者参画型講座プログラム」や連携協議会だけではない。RGKの外側で自ら参画の場をつくる人たちがいる。

 2024年度RGKの「当事者参画型講座プログラム」で自身の企画をひらいた参加者Bさんは、現在、全2回に渡る対話型の文芸講座の企画をつくっている。他の場で企画の開催が認められなかったテーマで、どうしてもかたちにしたく、主催者として講座を開きたいとのことだった。また、別の当事者Cさんは、他のだれかが作った場所ではなく、自分自身で「生きづらさを抱える人のための居場所」を作りたいと動き出した。2025年3月から現在も月に1、2回、国立市内でアートを通じた居場所を運営している。さらに、2024年度RGKの「当事者参画型講座プログラム」では、「ゆるウォーク@くにたち」という企画が開かれた。これらはすでにRGKからスピンアウトしており、個々人が任意で参加し、ゆるやかな散歩企画を立ち上げる場にもなっているようだ。

 ここまで、参画の事例をいくつか紹介したが、これらの事例の主語は、参加者であることを強調しておく。つまり、主体はあくまで参加者であり、彼/彼女らの生活の一部にRGKや筆者が、たまたま存在していただけと捉えている。RGKへの参加やコーディネーターとしての筆者との関わりは、各人の数多ある意図的/偶発的な出会いや発見、気づき、あるいは学びというグラジュアルな「リカバリー」のプロセスの一部なのだ。RGKは、「リカバリー」を「その人らしい暮らしを主体的に求める生き方(プロセス)」として捉えているが、「生きづらさ」を抱える人に無理に決めさせたり、やらせようとしたり、こちらの都合で操作/誘導しないことによって、結果的にこれらのような参画の行動につながっていると考察している。


第4章:「リカバリー」を通じた学びから生まれる共生社会の新たな視点:「共生圏の拡張」

4.1. 「回遊性」と「越境性」が生む「共生圏」

 RGKの参加者の変化は、「私らしさ」の尊重や参画による個々人のリカバリーだけにとどまらない。RGKの参加者アンケートによると、半数以上が講座への参加をきっかけに、国立市内外で訪れる場やコミュニティの数が増えたと回答している。これは、参加者同士の情報交換によって新しい場を知り、そこへ足を伸ばすという、相互的な場の移動を伴っている。RGKではこの事象を「回遊性」と呼ぶこととした。

 さらに、RGKの参加者が、元々出入りしていた既存の場に戻ってRGKの話をすることで、新たな参加者をRGKへ誘うケースも確認されている。実際の回遊先には、「からふらっと」(運営:国立市社会福祉協議会)や「喫茶わいがや(コーヒーハウス)」(運営:障害をこえてともに自立する会)、「ぽかぽかてらす」(運営:国分寺市社会福祉協議会)、その他多くの場があり、これらは「『生きづらさ』『対話』といった理念的な重なりを持ちつつも、それぞれが独自の文化」[27] を持つコミュニティとして存在している。これらの場・コミュニティをまたぐ行為は、個人の属性、立場、コミュニティ、分野のちがいによって引かれた境界線を結果的に越えていくこととなり、それはその人/相互の内面的変化/変容が起こっていることを含意する。RGKではこの事象を「越境性」と呼ぶ。ただ、具体的な事例をみると、「回遊」が行われている間に、気づけば「越境」していたというケースもあるため、この二つの事象は連続的に生起していると推測される。

 さて、異なる背景や属性を持つ人々がさまざまな場やコミュニティを越境するなかで、最も重要な媒介となるのは対話である。対話とは、自分の言葉を受け止めてもらうだけでなく、自分とは異なる体験を持つ他者の背景を踏まえて、その言葉の意味をわかろうと努める双方向的な営みだ。​このような対話は、他者理解と受容、すなわち寛容さを意味する。しかし、その中身は他者を受け止めるだけに留まらない。自分とは異なる体験や背景をもった他者と対話することは、自身が「当たり前」と認識してきたことが揺さぶられ、問い直されることでもある。対話によって自身の考えが変化し、これまでの当たり前を越えていくとき、そこに「越境」が起こっているのだ。

​ このように背景・属性が異なる人々が、相互に作用し合いながら回遊や越境が行われるとき、越境する人の意図の有無にかかわらず、人と人とが交わる範囲は実質的に広がっていく。この関わりを円で表したときに、円と円が重なる部分を「共生圏」(図1参照)と定義した。


図1:「共生圏の拡張」(眞山舎『「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」活動報告書— “変化の地図帳”』2025、p.31を参考に筆者作成)

[27] 眞山舎『「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」活動報告書—“変化の地図帳”』2025、p.30


4.2. 共生社会の新たな視点:「共生圏の拡張」

 RGKには国立市だけでなく、近隣自治体や中央線沿線の地域からも参加者が集まっており、既存の行政区と同義に使われる「地域」や「自治体」とは異なった様相で、実態としての「共生圏」を形成していると言えよう。2023年度のRGKから発生した「共生圏の拡張」という現象は、この実態として生成している 「共生圏」の範囲が、人々の自発的な移動・活動によって広がっていき、地域における異なる場やコミュニティ同士の関わりが増えていくことで、結果的に多様な個人が共生する範囲がひろがっていくという仮説的概念である。この拡張は、だれかが立ち上げた既存の場・コミュニティだけでなく、個人的な思い・願いに根ざした「当事者参画型講座プログラム」など新たな場やグループを立ち上げる(新たな円を生み出す)ことによっても生まれる(図2参照)。 


図2:「共生圏の拡張」(眞山舎『「リカバリーの学校@くにたち(RGK)」活動報告書— “変化の地図帳”』2025、p.32を参考に筆者作成)


 なお、「共生圏の拡張」は、市民・当事者・実践者の視点で共生社会を捉えたときに「こういう共生の現実がみえる」という話であり、決してそれ自体は特別な現象ではない。また、ここで使われている「共生圏」という言葉についてさらに補足しておくと、「立場や背景も異なるすべての人が仲良く共に過ごすことができる場」を指すわけではない。教育学者の津田英二が「多様な人たちが集まってくる中には、どちらも行き場がない人たちどうしの利害対立が生まれ、結果的により弱い立場の人が立ち去らなければならなくなることもある」[28] と述べているように、現実には単一/特定の場や機関、あるいは団体が、全ての人が完全に共生できる場を作ることなどできない。だからこそ、「共生圏」が「拡張」していくことは、立ち去らなければなかった人の「共生圏」が生まれるという重要な意味を持つ。

 津田はまた次のように述べている。「異質な他者との関わりから生じる学びは、(中略)社会の形成者として共に参画し、民主主義の質を高めるところにある。障害者は単に支援の対象、合理的配慮の対象であるだけではない。共に社会を構成する一員であり、他の社会成員と相互依存の関係にある人たちなのだ、という理解が重要なのである。その過程で、文化、行動、価値観、能力などの異なる他者との間に衝突や葛藤が生じることを避けられない」[29]。人々の自発的な移動・活動を通じて生じる「共生圏の拡張」は、個人の生活のあらゆる側面での相互変容を誘引することを示唆するが、そこで交わされる個人の実際のかかわりは、まさに津田が指摘する「異質な他者との関わりから生じる学び」に他ならない。つまり、「共生圏の拡張」は、「当たり前」を問い直し、相互の「他者理解と受容、すなわち寛容さ」(4.1.)を広げていく力学そのものであるといえる。

[28] 津田英二『「思想」としてのわいがや』障害をこえてともに自立する会、2021年、p.77

[29] 津田英二『「思想」としてのわいがや』障害をこえてともに自立する会、2021年、p.75


第5章(結び):異質な人々が参画する共生社会

 「生きづらさ」を抱える人たちは多く存在しており、その要因には社会のシステムの問題があるにもかかわらず、依然として社会は生きづらくない人たちの決定(あるいは、そのような物差し)によって動かされている。本論で参照した実践においては、「生きづらさ」を抱える人たちが意思決定する場に参画していくための方法論として、生涯学習の場において当事者の参画をコーディネートするというアプローチを採用したところ、個人のリカバリーのプロセスに寄与しながら、複数の当事者主体の取り組みが生まれた。同時に、特定のコミュニティに閉じ込められがち(あるいは孤立しがち)だとされる当事者の自発的な移動・活動によって人々の「共生圏」が拡張していることがみてとれた。そこでは異質な他者との学びあいが多数生まれていくことが示唆される。

 「生きづらさ」を抱える人が、自身の意見を吸い上げられるだけの存在ではなく、真に生活のあらゆる側面で参画できるためには、「生きづらさ」を抱える人たちだけでなく、非当事者とされる人たちもまた、対等な市民として共に学び合い、変容する体験を重ねることが重要である。なぜなら、「リカバリー」という言葉を通じてつながり、学び合ってきた体験をもつ、専門家や支援者、行政職員など社会的立場のある者たち自身もまた、越境する人になり得る可能性を持つからである。

 だれであっても、その人には必ず背景がある。互いの背景がすぐにわかることもあれば、時間がかかることもあるだろう。しかし、目の前の人がなぜこういうのか、なぜそうするのかが実感としてわかったとき、その人が何を感じ、何を思い、どうしたいのかを尊重したくなるはずだ。そのようなとき、人は自分の物差しで相手を評価したり、裁いたりせず、相手の物差しが、自分の物差しと同等に価値のあるものとして扱うだろう。すなわち、真っ直ぐな物差しを別の真っ直ぐな物差しに取り替えたり、真っ直ぐの物差しを調整するという発想ではなく、異質な人々が、共に物差しを曲げながら、物差しのゆがみを受け止めていくことが、共生社会に必要なことではないだろうか。

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