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「生きづらさ」を抱える人たちの生涯学習から始まる共生社会の新たな姿—「共生圏の拡張」と当事者の社会参画—

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※以下のエッセイは、筆者が2025年11月に応募した「懸賞論文」の募集で、実践を考察し、まとめたものを一部改編し、公開している。   本エッセイは、「生きづらさ」を抱える人たちが集う生涯学習の取り組みが、多様な人々の出会いのきっかけとなり、各人が「リカバリー」 (その人らしい暮らしを主体的に求める生き方)を共に歩む過程でつながり、「生きづらさ」の有無にかかわらず多様な個人が協力し合う関係が立ち上がることに注目する。また、別々の個人が共に生きる地域が生まれる仮説的概念としての「共生圏の拡張」を共生社会の核とし、多様な人々が参画する社会を構想する。なお、本エッセイは、市民・当事者・実践者として筆者が実際に体験してきたことを基に執筆する。 第1章:「生きづらさ」を抱える人とはだれのことか 1.1. 「生きづらさ」とは  筆者は、20代で双極性障害(いわゆる「躁うつ病」)の診断を受けた。電車では他の乗客が「無職のわたしを蔑んでいる」と思い込み、当たり前に働けない「自分は価値がない」と感じ、気持ちを晴らすために散歩をしても「太陽の光をぼんやりと見つめながら、このまま木漏れ日の中に消えてなくなりたい」と感じる日々を送っていた [1] 。つまり、筆者は「生きづらさ」を抱える人と言ってよいだろう。昨今、「生きづらさ」という言葉を多くの場所で聞かれるようになり、「だれもが生きづらさを抱えている」とも言われるが、一体、「生きづらさ」とは何なのだろうか。「生きづらさ」とは、初めは医療や福祉の現場で使われるようになり、「既存の枠組みではすくい上げづらい障害当事者の困難を表現する言葉」であったが、その意味が拡張され、障害当事者だけでなく多様な人々の「生きづらさ」を含む言葉となっていった [2] 。ゆえに、「生きづらさ」という言葉は、特定の属性や状態などを意味するわけではなく、また客観的な尺度で測れるわけでもない、個人的・主観的で境界があいまいな言葉である。  日本における「生きづらさ」を抱える人の正確な人数を把握することは難しいが、関連する複数のデータを参照してみたい。  そこでまず、筆者にとっての「生きづらさ」の要因である双極性障害に密接する「精神障害」について考えてみる。「精神障害」という言葉は、複数の法制度によって別々に定義されており、定まっていない [3] 。その上で、参考値...